キリボシ
キリボシ
~ ハマの畑からハマの食卓へ ~
何かを始める時、いつも自身に問いかける言葉がある。例えば、料理を作りに台所に来た、とする。「家庭料理とは何か」「私は何のために家庭料理を作るのか」と問いかける。そうした答えに久しぶりにフィットする導きがあった。
08年1月26日、奄美大島奄美市笠利町節田集落のハマに立ち寄った。浜辺に沿って茂る防風林のアダン。そのわずかな空間に、海に向かって造られた三角形の小屋があった。一目して手作りと分かる。人が背をかがめて通れるほどの、狭い小屋の空間の中央に白く眩しいものがぶら下がり、かすかに揺れている。
「なんだろう」。
近づくと、クリーニング屋さんから届けられる針金のハンガーに、両股開きになってつるされた切り干し大根だった。近くの家庭菜園には、大根のほかホウレンソウやレタス、ニンジン、ジャガイモ、フル(ニンニクの葉)、ブロッコリー、フダンソウ、ネギ、キャベツなどありとあらゆる野菜が彩りを添えていた。海辺の菜園は豊作だった。
やがて、民家からビーチサンダルのおばちゃんがゆっくり近づいてきた。私も間合いを詰めていく。「こんにちは~」「何処から来たの~?シマの人ね?」。シマの暮らし人とまれびとの、いつもの切り出しである。
針金ハンガーを活用する生活の智恵のリサイクルに話を弾ませながら、切り干し大根の作り方を聞いた。
奄美の切り干し大根は各家庭によって多少の差はあるが長くて、太い。この方の作り方は2日間風通しの良い場所にぶら下げた後、一回ゆでてまた干す。「ゆでて干すのが」
のがコツだ。ゆでておくとやわらかく、戻した時に料理しやすく、味もいいらしい。何年でも持つ、という。
大地から抜け出た大根は、切り干しされ、最初は白く艶光りしているが、乾燥するにつれ、薄い黄金色を醸し出し、優しく日焼けしたおばちゃんの笑顔の肌の色に戻る。
…と、ここまでは、どこにでもある食の話だが、奄美の場合はここからドラマが始まる。
切り干し大根が揺れていた小屋。
そこは昨年、96歳で逝ったウタシャ(シマ唄の名手)里英吉さんが毎日、サンシン(三味線)を弾き、海の彼方に向かって歌っていた空間だった。

あん雲の下だろや
あわ吾かなしゃる人や
あん雲の下だろや
(あの雲の下でしょう 私の愛しい人は あの雲の下でしょう)
海を隔て、離れて暮らす二人。そばに居て体温を共有することのない愛しい人を、「あの雲の下に…」と、裏の声で切々と歌う奄美のシマ唄「朝花節」である。英吉さんは、折につけてこの唄を歌っていた。「あの雲の下」には喜界島が浮かぶ。実は、英吉さんは船乗りあった
やがて、その姿は地元の新聞に載り、さらにテレビが取り上げ、偶然その画面を見た大阪の女性が「もしや私のお父さんでは…」と、英吉さんのもとを訪ねる。実に68年の歳月を経て出会う親子の初対面であった。
運命の出会いから2年後、英吉さんは静かに旅立った。お墓は、「あの雲の下の島」が一望できる小高い丘に建つ。アダン林の小屋では、英吉さんに代わって風に揺れる切り干し大根が「あの雲の下に…」を奏でているのだった。
薄いブルーにグレーのインクを混ぜたような厚い雲が幾重にもかかり、時折光りの閃光が海に差し込む淡い、うつろな冬曇りの奄美の空。「英吉小屋」の入り口にある2つのいす。
私は右側の椅子に腰を下ろしてみた。しばらく海を眺めていると、視線の先に「あの雲の下」の喜界島が薄っすら見える。
頭上には、ハンガーにぶら下がった切り干し大根。足元はサンゴの白い砂。
静かななぎの海の、たおやかな音。…豊穣の時間だった。
数日後、私はあのおばちゃん(英吉さんの長男のお嫁さん)からお土産に頂いた大根をヨコハマの実家で切り干しにし、シマで教わった家庭料理を私なりに再現していた。奄美のハマと横浜のハマが「キリボシ」で結び合った。
南の島の太陽の光と天然の大地の養分がふんだんに染み込んだ切り干し大根。
サンゴの海の潮の香りを添えた味付け。そして英吉さんのウムイ(想い)の盛り付け。見た目はシンプルだが、そこには手間暇かけた長い時間があり、深いきずなで結ばれたドラマが添えられている。
「シマの家庭料理の味わいは過程(家庭)にある」。
その過程を大事にし、大切な存在への唄(想い)を抱いて家庭料理を作る。
そのことを身体に染み込ませた「キリボシ」だった。
切り干し大根と塩豚の煮物 2・塩豚をゆでて塩出しをする(3回から5回繰り返し塩抜きをする)。
1・切り干し大根はぬるま湯に半日漬けておく(戻し汁は捨てる)。もどした切り干しは10センチほどの食べやすい大きさに切っておく。
3・黒糖焼酎コップ1杯、黒糖大さじ2杯、10センチにカットした浜中昆布(北海道)、鰹節で出汁をとった出汁を鍋に入れ、2を柔らかくなるまで煮る。
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